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	<title>Lügenlernen &#187; バルカン</title>
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	<description>人間万事塞翁が馬</description>
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		<title>我、写真を信ゼズ 。(２) カメラのない日々。</title>
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		<pubDate>Sat, 27 Feb 2010 23:11:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[バルカン]]></category>
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		<category><![CDATA[映像／写真]]></category>

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		<description><![CDATA[カメラのない旅は気楽だと思う。10年以上にわたって写真を全く撮らなかった。その間に世界中それほどでもないけれど、色々いった。足をとめるとような対象があれば、それを穴があくまでみてやろうとする。そして、気がすめばゆく。気がすまなければ、そのままずっと気がすむまでいればいい。カメラがあると、どうもそこまで対象をみてやろうという気がマックスでそのカメラがないときと比べても半分ぐらいなような気がする。それでもいいだろう。カメラの目と小生たち人間の目は根本的に作りが違う。そのカメラの目にゆだねてみるのも一つの方法だろう。でも、小生はそれに我慢がならなかった。我、写真を信ゼズ、と。 そんなカメラのない旅を21世紀が始まるあたりから何度もつづけてきた。イタリアを北から南へ一ヶ月以上もさまよったこともあった。でも、一枚も写真をとらなかった。今でも自分がどこで何をみて何をしたか、正確に再現できる自信がある。ニューヨークで一ヶ月なにもしないでマンハッタンの北から南まで通りから通りを歩き続けたこともあった。そこでも、写真は一枚もとらなかった。その間、あたかもカメラなどこの世には存在しないもののように思っていた。でも、どこから毎日どこまで歩いたかはほぼ覚えている。日中でもマイナス20度以上の酷寒のテレジーンの人気の全くない要塞の小さな窓から軒先に凍った氷柱を眺めながら床に横たわって、そこの静寂に耳を傾けていた。５分もたたないうちに寒さに耐えきれなくなり、静けさの中に自分の体が震える音を聞きながら、ここで暖房もなく５分どころではない時間を過ごさなくてはならなかった人たちのことを考えはじめた矢先、どかどかと独逸人観光客の団体がはいってきた。そしてデジカメのシャッター音をいっせいに鳴らし始めた時、俺の静寂をかえしやがれ、このナチ野郎どもめ、とおもわず日本語で叫んだ。相手がなにもわからないことをいいことに。彼らはおそらく小生の怒りを直観しても、なぜ叫んだのかまでは絶対に理解できなかったはずだ。その時、カメラは戦争や弾圧、権力の道具にもなりうるとも直観した。それどころか、記憶や弔いという行為すらも踏みにじるのではないかとも憤った。スカンジナビアで一ヶ月以上過ごしたこともあった。深い森のなかを早朝まだ暗いうちから散歩し、その森の抜けた先にあった湖の向こうからとても美しい朝焼けと朝日が昇ってくるのを見たこともあった。言語を絶した美しさだった。万里の長城の北側の乾燥した大地にある石窟群を訪ねたこともあった。ひたすら巨大かつ精巧な仏陀をみて圧倒された。カメラはもちろんなかった。その巨大さとそれに圧倒されたことは今でも体が精巧に記憶している。写真などどうでもよかった。カメラなどあるだけ邪魔だった。意地でもあった。徹底的にカメラを嫌悪した。そして、写真をとっている人間を睥睨し続けた。それはエゴイスティックでもあった。同時に、エゴと自分の記憶との戦いでもあった。 最近手元にあったカメラが二台とも壊れて、もう２ヶ月以上もシャッターをきっていない。その間、書くこともせず、なにもせず、本をよむこともなく過ごしてきた。ぼんやり大学にいきゼミに出てしゃべってなにかを考えた。カメラはなおせばいい、そうすればいいだけの話でもある。その間もデジタルカメラを持ち歩いて時々それをつかって像をとるけれど、満足のいく像はとうてい得られない。デジカメはあきらめて、古い現像済みのフィルムをもってひさびさに暗室にこもろうかと思いかけたその先、年内まで関わってきたフンボルト大学のAudimax占拠も終わった。そして二週間もたったころ2月の半ば、ふとまたAudimaxに一人足を踏み入れてみようと思った。誰もいなかった。ひたすら静かだった。強いていうなれば、ゴミの掃き溜めのように汚かった１月の半ば頃と比べると、床には塵一つ落ちていなかった。昨年末、クリスマス・イヴの夜、暖房も落とされ、ひたすら底冷えのするAudimaxで天井をじっとみつめながら眠れない夜を過ごした時となんら変わらなかった。寝袋に潜り込みながら、ひたすら早く朝になれ、朝になったら日本行きの飛行機が待っている、と念じながら朝を待ったことを思い出しながら、しばらく、Audimaxの最後列の席にすわって、放心しながらじっと正面はなにもない空っぽの舞台の上を見つめていた。占拠中には、他の大学からの応援メッセージやスローガンが書かれた横断幕などで埋め尽くされていた舞台の背後の壁はもうなにも語りかけてこなかった。Audimaxの中には誰も入ってこなかった。じっとその静けさを聞いていた。携帯がなった。携帯をズボンの後ろポケットから取り出すために、席をたった。そのままAudimaxを立ち去った。それ以来、Audimaxには立ち入っていない。もう二度いくこともないのだろうか。あの奇妙な静けさがいまでも空っぽになったAudimaxと記憶の中で分け難く結びついている。 しばらくまたカメラなしで過ごしてみようか、かつて10年間そうすごしていたように。そして、書くことに、自分のロゴスと脳裏に焼き付けられたイメージのみに、全神経を集中する。一度、試してみる価値はあるだろう。そこまで意識的にしたこともないのだから、いままで。そうしてみよう。 今日も大言壮語がすぎました。ではまた自戒。]]></description>
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		<title>我、写真を信ぜず。2004年7月20日、朝９時半。デュレス、アルバニア。</title>
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		<pubDate>Thu, 25 Feb 2010 13:46:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[バルカン]]></category>
		<category><![CDATA[映像／写真]]></category>
		<category><![CDATA[アルバニア]]></category>
		<category><![CDATA[写真嫌い]]></category>
		<category><![CDATA[映像]]></category>

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		<description><![CDATA[６年前は写真など全くとっていなかった。高校生の時、もうすでに12年以上前、ひねくれていたほどではすまなかった小生は、かつてそれをつかっていやというほど写真を撮り散らしていたキャノンのFtBをある日突如机の中奥深くにしまいこみ、突如写真を憎悪するようになってしまった。3年前の夏京都の実家に帰ったおりふとしたことから、引き出しから再び取り出すまで。なにがきっかけだったのかは全く覚えていない。 ６年前は約2年のブランクをおいて、ひさびさにバックパッカー復帰を果たした年でもあった。ベルリンにやってきて二年目。一年目は旅行どころではなかった。その前の年2002年は、ベルリンと京都と東京を行ったり来たりする生活。東京を離れる決心をして、ベルリンにやってくるもそこでは苦労の連続。住居も定まらず。大学がようやくきまり長期滞在用のヴィザも取得し、ようやくベルリンでの生活が軌道にのりはじめて2年目の2004年の夏は全く晴れ間がでないほど、夏といえないほど天候。そんななか、７月になり突如ドイツ人の親友Sがバルカンにいかないかと誘ってきた。 どこへ？ アルバニア。 乗った。 その一週間後、僕らはクロアチアのドゥブロヴニク空港の前に立っていた。日本人男、身長180センチ、独逸人男、身長168センチの超デコボココンビ。そこから二週間ほどに渡るバルカンの放浪がはじまった。モンテネグロ、アルバニア、ギリシャ、アルバニア、コソヴォ、モンテネグロ、クロアチアという順に。初めてのバルカンはなにもかも新しかった。中東欧マニアを自称していた小生にとっても、ポーランドやチェコとは全く異質の世界だった。その旅のハイライトはいうまでもなくアルバニアだった。ヨーロッパ最貧国の名にふさわしくアルバニアは小生にとっては衝撃の連続。いまだに滅多にいけない所にいったかなと思う。旅のみちずれであった友人は中東並みか、とぼやきまくっていた。 ６年もたてば、記憶もうすらいでいくものの、その旅行では実は写真をとるかわりにヴィデオカメラをまわしていた。今日ひさびさにそのテープをおこしていて見ているうちに、ふと当時旅行中日記をつけていたということに思い至った。探し出すのに小一時間程かかったものの、今日はテープを起こしながらこれをずっと読み返していた。それにしてもカメラの調子がおかしい。音声がでない。多分、デジタル化おいたほうがいいのかな、と思う。これから暇のうちにやっておこう。 毎度のことながら、無精なので2週間のうち4日間しか日記をつけていなかったが、支出はだけは毎日かかさず記入していたようだ。これだけでもこの旅行の間の様子が垣間みれるというものだ。 日記の中で６年前の小生は写真への不信感を語っていた。日記のことなどわすれていたが、それだけでも今日の小生には大きな示唆にもなるはず。そうおもい日記を活字に起こし直す作業をはじめた。 一回目はアルバニアのデュレスにて。 Größere Kartenansicht ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ ７月20日（火）デュレス・アルバニア　AM9:30 なんでか知らないが、今アルバニアいてる。朝シャワーを浴びて、なにもすることがないのは、誰もおきてこないからだ。でも、こんなに落ちついた朝は久しぶりなような気がする。というのは、こんなに日差しの多い朝が本当に久しぶりのせいもあるかもしれない。思えば、僕のベルリンの家は朝全く日が入らない。フランチィの家もそうだった、昨年。まだ、それほど暑くもないが、すでにけだるい夏のどとりとした空気、でも、それはなんら不快なものでなく、なにがしらときほぐされたような空気でもある。日本にいるときもそうだ。夏の朝はいつもこんな感じだ。とくに、夏休み、７月、８月のこれからとても暑くなるだろう日の朝は。なにもしなくてもよいという開放感というのは気分がいい。なんの不安もない小学生の時、もちろん、僕らの場合、塾通いとかで、そんな気分になれなかった時のほうが多かったはず。例えば、週末のなにもない日の朝であるとか、少なくとも小学生の５、６年の休みというのは、そうした朝があっただけでも救われたような気分になったものだ。そう考えるといかに自分が常に緊張感を強いられていた生活を送ってきたことが分かる。 今こうして、何もせず、何の不安もなく、こうやってアルバニアの港町で日記をつづれるのは、そのときのことを思えば、とてつもない贅沢だ、もちろん。あれはいったい、なんだったのだろうと思う。投資と言うことに例えれば、時間と身体と肉体を緊張をつぎこんだにしろ、あれは、いったいなんだったのだろうと思う。無駄だったのだろうか、反面教師的、少なくとも、自分をどういう風に育てるとか、ということを、決定する上では重要だったのかもしればいが、それにしても、あの時の時間が帰ってくるわけでもない。それでも、無駄などとは、もはやいまさらのことに過ぎないだろう。 思わず、脱線。夏の長い一日への朝のけだるさについて書くはずだった。ともかく、ありがたちのは、この太陽。ベルリンでは味わえない。日本で得られなかったもの、時間、余裕、様々。一方、日本に置いてきたものも多々あるけれど、一番のものは、この夏の日差しの厳しさであり、そのありがたさだろう。久しぶりにそれを思い出して、少し日本がなつかしくもなったが、しかし、日本の夏は大変だ。また、夏の朝のけだるさについてはまたの機会にゆずるとしよう。少なくとも、バルカンにいるうちに、それを忘れずに。日本に近々それを取りに帰るとしよう。暑さにへこたれて、またベルリンが恋しくなるだけだろうか？ ではまた自戒。]]></description>
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		<title>Kodography: Bucharest again.また別のBへの20年を越えての帰還へ。</title>
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		<pubDate>Tue, 03 Nov 2009 18:04:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[Kodography]]></category>
		<category><![CDATA[バルカン]]></category>
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		<category><![CDATA[ルーマニア]]></category>

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		<description><![CDATA[Kodographyに更新した昨年４月ブカレストで撮り散らした写真のとある一枚を眺めながら、こういう通りは日本にもあるな、という思いが去来してきた。昔の京都、特に。８０年代ごろの。 当時８０年代の半ばごろ、まだ当時横浜の郊外のとある団地（とはよばれずにマンションとよばれていたが）街の一棟にすんでいた小生は、母親の帰省につれられ、京都へ休みの間よくきていた。いつも新幹線で京都駅の八条口につくと、そこで祖父に迎えられ、母親の実家のある京都の北区へと車で向かっていた。その時に、京都の狭い道をとりぬけながらよく見た光景が、そのブカレストの写真をみていると、突如としてフラッシュバックしてきた。 京都のみならず、普通の昔の日本の家屋が残る街のように、他のヨーロッパの大都市と比べても軒の低い建物ばかりが並ぶブカレストの中心部の町並み。ここはヨーロッパなのだけれど、間違いなくここはヨーロッパでありながら、アジアへの中途にあるということを深く思わせるような路地が錯綜している。この写真にあるような未整備でところどころに穴のある道路やくたびれてすすけた灰色の町並みも、京都でもつい最近まで、街中いたるどころに見られた。特に、千本通り周辺など。そして、京都同様、ブカレストの軒の低い町並みを打ち付けるような日差し。この写真を撮った日も、４月中旬にしてすでに30度近い陽気だった。そのせいなのだろう。写真をみていると、同じように、東京の墨田区や荒川区や、特に今年の年初に大阪の天王寺の南あたりでみた風景が同様に頭の中をよぎってくる。大阪の街の中心部には、今でも時代に取り残された感じのする場所がそこここにある。それをみて、大阪は日本の、そしてアジアの大都市のひとつなのだ、と思うことが時々あるのだが、それをことさらに感じるのが、下の写真にあるような路上の風景だ。 From Osaka is really deep. ブカレストをはじめて訪れたのは、2007年の10月だからもうすでに2年も前になるのだけれど、その時、トラシルバニアの古きヨーロッパを思わせる町並みから、その旅のしめくくりとしてブカレスト到着するや、建物と車のカオスに放り込まれた小生は、トラシルヴァニアの美しき町並みと自然を懐かしむどころか、すっかり、この街に夢中になってしまった。 当時、べルリン在住４年目にして、ひさびさのバックパッカー復帰を果たした小生は、２週間あまりになるルーマニア放浪を通じて、自分の中東欧やバルカンとかよばれる場所への愛着を再確認したのであるが（その旅の写真はここから御覧あれ）、どことなくまだ中欧的な雰囲気な濃厚なトラシルヴァニアからブカレストにやってきた小生は、ブカレストの街をみてすっかりそれにとどめをさされてしまった。他のヨーロッパの大都市にはない街並み。入り組んだ路地。そして、一つのとてつもなく広く長い大通り。やはり、小生は秩序よりもカオスが大好きなのだ。速攻小生はブカレストの入り組んだ路地に身をおどらせ、迷路のような街路をさすらうことになったのである。 とはいえ、東欧の小巴里、とかつて呼ばれたらしいブカレスト。何をさして、小巴里、といわんとするのか、巴里自体にいったことのない小生には殆ど実感のない比喩であるが。ポジティヴにとらえるならば、世紀転換期から20世紀前半にかけて、このバルカンとよばれる半島の真ん中にあるブカレストでも、他のヨーロッパの街同様、世紀転換期の文化が栄華を誇ったことを思い起こさせるような建築の数々が、ブカレストを東欧、もしくはバルカンの小巴里と呼ばさせるのかもしれない。確かに、この街には、過去の塵をはらい、かつての輝きをとりもどしつつある華やかな装飾を誇る建物が無数にあることだけは間違いない。 また、一方、ネガティヴにとらえるならば、それは、70年代から80年代にかけて国民を窮地に追い込んだチャウセスクのブカレスト改造計画以外にない。巴里のシャンゼリゼをまねたという彼の妄想ぶり。この場合はむしろブカレストを東欧の巴里と呼ぶのはやはりふさわしくない。そんなものは実現不可能だっただけでなく、そもそも「東欧の小巴里」とよばれた名残がいまだあった当時のブカレストの破壊以外のなにものでもなかったわけだから。 チャウセスクがシャンゼリゼを寸分違わず再現しようとしたブカレストの中心を暴力的貫くにつらぬくBulevardul Unirii（統一大通り）。しかし、それがポチョムキン都市のように滑稽であることは、この地図をみればわかるし、自国の国力を無視した都市改造とそれによるチャウセスク一家の浪費は、その後いかに彼らを滅亡へと追い込んでいったか、なによりもルーマニアという国と国民を疲弊させたか、そしてそのことがなにを招いたか、それは誰もが知っている。今のブカレストに表立ってあるのは、全く実現不可能かつ彼らを滅亡へと追い込んだその誇大妄想の残骸の一部である。 From Wandering in Bucharest again&#8230;18 &#38; 19.4.2008 しかし、ブカレストはポチョムキン都市とは決定的に異なるのは、それはいうまでもなくそれが生身の都市であり、そこに住まう人がいるということだ。その意味で、現在のブカレストは、東欧の巴里と呼ばれた過去にでもなく、チャウセスクの誇大妄想の廃墟の中にもない。ただそこにある。もちろん、僕らはブカレストという街が経てきた過去という現実の一部をそこで目の当たりにすることになるが、街は現在から未来へと生き続ける、そして、一つの過去にとどまることはないのだ。そんなことをブカレストの中心部にある、べルリンのアレクサンダー広場のように、人と車の渦の只中にある統一広場Piaţa Uniriiに立ちながら思った。通称アレックスことアレクサンダー広場も随分かわった。ブカレストの統一広場でいつかはそう感じるときがくるだろう。 べルリン同様、ブカレストに小生が引きつけられる理由、それについて昨年二回目にブカレストを訪れた時の2008年4月7日の日記に小生はこう綴っている。 多分、思い起こせば、僕の最初の歴史という物語との最初の接点として考えられる出来事は、昭和の終焉、ソヴィエト連邦の終焉、べルリンの壁の崩壊、東欧革命、湾岸戦争などだろう。それはすべて89年から90年にかけておこっている。あとは今僕がいるルーマニアでの89年に起った一連の出来事。僕が歴史というものを思い起こすたびに避けれない、この歴史というものにかかわらんがために強いて来た、これまで地球中の津々浦々で流されて来た血の量。歴史というものが想起させるのは、そのような血なまぐさ以外にありえない。 おそらくはじめて人が死ぬという、まさに歴史が、チャウセスクという独裁者を、血の洗礼でもってほふった映像を見た時、はじめて、僕はこの歴史という血なまぐさい物語の中へ、今から思えば、放り込まれたのだ。むしろ、自分がその只中にあることをさとった見せつけられた瞬間なのかもしれない。いいだろう、そうした認識は恐らく、今の自分による事後的なものだろう。 そのルーマニアで89年におきたこと。独裁者の死のシーン。そこに間接的であれ、それを同時代的に９歳の子供としてたちあったこと。それが、僕も「歴史」という「物語」に向かわせる契機の一つであった、といってしまってもよいのだろうか。独裁者の死の瞬間。無造作にころがされた肉体、それは「歴史」という物語が要求した犠牲であり、僕にとっては、それをテレビのブラウン管を通じて眺めてしまったこと、こうして、そこから逃げ出す機会は永久に失われてしまった。 そのことをいまこのブカレストの地で18年の時を越えて、今日、あの国民の館の前に立った時、なにかとともにふつふつと自分の中にわいてくるのをはからずも感じてしまった。その何かとは？なぜ、僕が、ほかの街にではなく、この街にだけ感じざるをえない、そのことにつきるのだ。多分、それはべルリンという、僕にとってかけがえのない街に対しての感情と類似しているのだろう。あとは、べルリンの壁が崩れた後、2ヶ月もたたないうちに、あの独裁者は自らの民によって処断されたのだということ・・・。 人間には他の動物にはない次のような能力がそなわっている。見ざる、聞かざる、言わざる、という。僕らはある現実をみることができないときは見ないですますこともできる、聞きたくないことがあるときは聞かざることもできる。言わなくてすむときは言わないでおくこともできる。それですませられる現実があるならば、それも可なのだ。なんにせよ、「歴史」という「物語」にかかわらなくてすませられるならこれほど楽なことはない。 僕らはその彼岸にいる。つまり、現実を「物語」化することを拒否するような場所であり時代に。そこでは、誰も、世界の現実をしらないし、そのまま知らないですませることもできる。それも可だ。とはいえ、そんな世界にいつつ、「歴史」や「物語」について語ることもいまや、過去の夢物語の一つを語るようななのだろう。僕らはその「物語」のどこにも登場しない、なぜ「物語」が終わってから、はじめて「物語」の舞台へとやってくるのか、そんなクロノジカルな病と後悔が僕らを「物語」へとコミットさせようとする。それを思うと、恣意的にそれに関わろうとするなどするのは、むしろ、いわば狂気の沙汰でもある。この「物語」は常に犠牲を要求するのだ。 今年、ルーマニアで革命がおこってまもなく20年になる。1989年の年末、テレビで見たいまだ忘れられないチャウシェスク夫妻の銃殺映像。20年たっても鮮明に覚えている。そして、われわれはそうした時の過ぎ去り仕方の容赦なさの中にいるのだ。 べルリンでは、あと一週間弱であの壁にハンマーを打ち付けられた日から２０年がたつことになる。小生はこの東西の交通の自由化に際して、あの日1989年11月9日、一番最初に開かれた東側の検問所のあったベーゼ橋Bösebrückeのそばに住んでいる。ほぼ毎日その橋下の近郊列車の駅へいくために通るこの橋も20年前のちょうど今頃はまだ誰もが渡れたわけではなかったということは、これまでの小生の日常生活の中でも、正直なところあまり顧みられることはなかった。しばしの間、今一度、その事実をかみしめることにしよう。 そして、12月21日には、ルーマニアはブカレストでも、あの日から20年がたつことになる。 ではでは、その時まで。また自戒。]]></description>
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		<title>グルジアへ(4) アルダハンへ</title>
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		<pubDate>Sun, 29 Mar 2009 22:36:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kodo</dc:creator>
				<category><![CDATA[2008年夏トルコ/グルジア]]></category>
		<category><![CDATA[Feature]]></category>
		<category><![CDATA[バルカン]]></category>

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		<description><![CDATA[前回までのあらすじ：グルジアへ出発しようとしたその日の朝、前日にデジカメを忘れたのにようやく気がつくわ、目のまえで踊りだす挙動不審型マイケル様仕様兄貴にでくわすわ、あまりの出来事満載の一日のスタートに期待と不安半分半分の小生。 9月25日８時半ごろ。小生をのせたアルダハン行きの乗り合いタクシーは5、6人ほどの客をのせて、カルスを出発。街をでると、朝ホテルを出たときにははっきりしなかった曇り空も雲一つない青空になっていることに気がつく。その見渡す限りの青空の下まっすぐのびている道を車はひた走る。見えるのは、時折、それほど手が入っているようには見えない耕地、放し飼いになっている家畜とそれをかこう石でくみ上げられた敷地の境界の壁、そして、道と並行するように走る電線だけ。集落とよべるかもわからないような家の塊がときおり視界に入ってくる。 どの家もブロック塀や石をつみあげられた簡素なものばかりなのだが、それでもどの家にも衛星放送をみるためのアンテナがついている。もちろん、文明社会がこの地に到来してそれほど長い年月がたっていないことは想像に難くない。ここで暮らす人々は、今もほぼ牧畜とほそぼそとした交易でくらしているのだろう。今日もこのステップに暮らしている人々は、中央アジアのステップあたりから高原地帯の草原にそってやってきた彼らの先祖と、それほど変わらない生活を送っているのだろうか。それとも、衛星放送と携帯電話が大きく彼らの生活を変えたのだろうか。 しばらく走ると、ステップの中の一直線の道はカルスとアルダハンの間に横たわる高地へ登っていくために多少左右にくねる。イスタンブルから陸伝いにやってくるとあまり気がつかないのだが、先ほどまでいたカルスもすでに標高1800mほどの場所にある。小生が走っているあたりの標高もすでに2000mをゆうにこえている。 ところで、この日のグルジアへの道筋、もっとも高いところで標高3000mほどはある小カフカース山脈を越えていくことになる。この小カフカースは、黒海沿岸に流れ出る河川と東アナトリア、アルメニアやアゼルバイジャン、あるいはグルジア、アゼルバイジャンを通ってカスピ海へと流れ出る河川の分水嶺でもある。これからグルジアに至るまでの道すじもその境界線にほぼそっているが（厳密にいうとやや東側）、この分水嶺は現在トルコ共和国とコーカサス3国との境界の少し西側はしっている。 恒例の地図で走るルートを確認。 大きな地図で見る トルコ人が中央アジア方面から小アジア方面に移動してきて以来、20世紀初頭に、トルコ共和国とソヴィエト連邦の一共和国となったアルメニア共和国との境が現在あるように落ち着くまでは、つまり、アルメニア人が居住していた地域、つまりアルメニスタン、もしくはアルメニア人の自称に従うならばハヤスタンとよばれた地域は、ほぼこの分水嶺の東側にそってあった。だが、現在のトルコ共和国とアルメニア共和国との境はその分水嶺からはやや東にずれている。だから、現在のトルコ共和国の領土内に前日におとずれたアニのようなかつてのアルメニア王国の遺跡や教会が点在している。ここは古来様々な文化が交差し合い、そして政治権力が衝突し合う地域であった。19世紀にはロシア帝国とオスマン・トルコがコーカサスの覇権を競い合い、そして20世紀においてはソ連と境を接していた。ということは、トルコ共和国は1952年以来NATOの加盟国であることから、かつてはこの地域も東西冷戦の最前線でもあったわけである。そして、現在冷戦終結後のこの地域の権力図はまたしてもおおきくかわりつつある。 先ほどの左右にくねった道をさらにのぼりつめると、今度は見渡す限りのステップの中をまっすぐにのびる道を小生がのったドルムシュはひた走る。左右を見渡すと、草原が空と交わる一線にたどりつくまで果てしなくつづいている。集落が道からやや離れたところに見えるほかには、時折遊牧民とおぼしき人たちのテントの塊が時折道の左右にみえるのみ。その前日、アニへ行く途上にも同じようなテントとそこに暮らす人々を車中からのぞんたが、昨日の運転手のチェリル曰く、彼らはトルコ系やコーカサス系の遊牧民ではなく、ロマだということだった。ロマはどこにでもいる、世界中どこにでも、とチェリルはいった。ものの話では、南米にもその末裔がいるということだ。 確かに、この旅の途上、クルディスタンのウルファにもイスタンブールにも地元の人からロマと呼ばれる人々はいたし、小生のところにやってきて小銭をせびったりされたのも一度や二度ではない。これまで小生が旅した地域、特にバルカンや中東欧でロマと思しき人々に出会わなかったことはない。 ベルリンにもロマと思しき人たちは相も変わらずよく見かける。90年代にはさらに多かったともいうが、小生の印象では2006年のサッカーのW杯ごろからまた多くなった印象がある。男たちは、アコーデオンや弦楽器をもって、近郊列車の中や小生が住んでいるベルリンはプレンツラウアーベルクの界隈を演奏してまわって小銭をあつめまわっているし、子供や女たちは、ベビーカーや時にはリヤカーを引きながら、そこら中にあるがらくたを集めてまわっている。それは定住することや定職につくという発想がもとにあるもともとが農耕民である僕らにとってはそれは理解しがたいかもしれない。しかし、それが彼らの生き様なのだ。それをむやみやたらと啓蒙しようとした慣れの果てが、ユダヤ人にたいするホロコーストの影にかくれてなかなか顧みら得ることがないしいまだその補償も充分でないというナチスドイツによる種としての絶滅政策であったり、共産主義による同化政策という名の強制であったり迫害であったりする。 そのアコーディオンとヴァイオリンというロマにたいする小生のステレオタイプをかえるような出来事が2年前の秋、ルーマニアはトラシルヴァニアを旅している時にあった。ちょうどオラデアからクルージに向かう道筋だったか、その時も、乗り合いタクシーに乗っていたのだが、小カルパティア山脈を越える山道の途中、どの家もきらびやかな装飾や塔がついた色とりどりの木造の家がたちなぶロマの村を通り過ぎた（このような村はトラシルヴァニアだけでなくバルカン中、旧ソ連ならばウクライナやモルドヴァにも点在する）。そこで小生が乗っていた乗り合いタクシーを止めて乗って来たロマの若者のことは今でも忘れられない。その兄ちゃんの出で立ちと顔つきはまるでジミ・ヘンドリックスだった。60年代のヒッピーたちもロマのファッションを真似をしたともいう。そのロマの若者のその出で立ちの格好よさに、小生はおもわずため息をついてしまって、しばらく横顔も渋いジミヘンそっくりのその兄ちゃんをじろじろながめてしまった。 ところで、先ほどベルリンにもロマが増えたような印象があると書いたけれど、その彼らが路上で寝たり食事をしていたりのを見かけることはまずない。せいぜい子供は僕らの前で無邪気に「くすねた」（あげる側はめぐんでいるつもりなのだろうが）ものを食べていたりするのをみるけれど、大人たちはどこで寝食をしているのだろうか。ベルリンならばヴェディンクやノイケルンの日当りの悪い家の地上階に住んでいるのだろうか、と思ってしまいがちであるが、まさか。そんなことを僕らにさとられるほど、そして、みずからそんなところに進んで住むほど、彼らは間抜けではないだろう。多分、彼らは、ベルリンの町中あるいは郊外のどこかにある空き地などに、誰にもさとられず、自分たちの日々のパラダイスを築いてしまっているのだろう。そして、そこが都合悪くなれば、風のようにまた別の場所にうつる。 そもそも、間抜けなのは僕らなのだ。職業なる束縛があったりして一つの場所に定住し、様々な制約で自らをがんじがらめにしてしまって、日々青息吐息になっている僕らが。僕らの生活の隙間隙間をくぐり抜けて、その残余でいきているかのようにみえる彼らの生き様を抜け目ない野良犬のよう、といってしまいたくもなるが、しかし、多分、本能でいきている、もしくはそれを自ら充分過ぎる程知っている彼らにとって、僕らは余計なものばかりを生産する隙だらけの大間抜けなのだ。かつてほど、彼らの行動や生活の自由はゆるやかではないのだろうし、いうまでもなく、現在も彼らに対する差別は厳然としてある。それが不当であるのはいうまでもないが、なぜ彼らに対する差別が存在するか。様々な理由があるだろう。先ほど言及したが、劣等人種として絶滅を強いようとしたナチスや、労働しないのはけしからん、と定住と文明社会への啓蒙を強制した共産主義などは、結局彼らを未開の人間としかみていなかったということだ。（これが特別厳しかったのは中東欧ではチャウシェスク期のルーマニアや旧チェコスロヴァキアだという）。 しかし、様々な束縛を強いる僕らの文明の産物、僕らはそれに頼り切りではあるが、彼らにとっては所詮ガラクタでしかない、なによりそんな文明は彼らにとっては全く魅力的ではないのだ。つまり、彼らは知っているのだ、ガラクタをガラクタであるように作り出したのは僕らであって、そういったガラクタが必要でなければ生きていけないのも、僕らなのだ。だから、彼らにとって、僕らの住む現代の都市なども時折こぼれ落ちてくるようなものをくすねればすむようなガラクタに満ちた巨大な物置にすぎないのだろうし、それ以上の魅力はないのだろう。何千年もかけて築き上がられたこの文明世界に価値をみいださず、いや、また別の価値を己の生存のためにみつける彼らの生き方とは、僕らが通常これしかありえないとおもっている生の日々を揺さぶるようなものであるということに気づいている人は少ない。だが、必要以上に彼らの自由な生き様なるものを憧憬をもって美化する必要もないだろう。この話はこれにて打ち止め。 さて。そんなステップの真ん中の道をはしっていても、不思議とこのドルムシュを止める人はいるもので、いつのまにか車は満員になって狭い通路ともいえない隙間に立つ人もでるくらいになった。みなアルダハンにいくのだな、と思ていると、突如草原の中で車をとめて降り、そして、また乗る客ありで、こんな草原のど真ん中でこれだけの乗り降りがあるのかと驚くぐらいだ。そうこうしているうちに、道は下り坂になったかと思うと、左右に集落が増え、まもなくすると、左はアルダハンへと続く辻へとさしかかった。恐らく、まっすぐすすめば、さらに小コーカサスを越えてグルジアに至る道なのだろうが、小生の乗るドルムシュは左へアルダハンへとまず向かう。 しばらく走るとまもなくトルコ共和国の旗を斜面に描いたおおげさなモニュメントが左側にみえて、背丈の低い家が並ぶ市街へと入ってまもなくすると、同じようにドルムシュがたくさん停まっている駐車場の中で停まった。運転手は小生に対して、ここがアルダハンだ、終点だ、降りろといって、みたいなことをいって、トランクにある小生の荷物を出してくれる。 しかし、バス乗り場といった感じのところでもなく、トビリシ行きのバスの出発時間である11時まで1時間をすでに切っているので、時間も気になるし、すこし町外れだったりすると面倒くさいな、と思う。荷物をうけとりながら、トビリシ行きのバス乗り場（オートガル、とトルコ語ではいうが）はどこなんだ、だときくと、側にたっていたドルムシュ乗り場の警備員らしきおっさんになにか大声で叫ぶ。すると、その警備員のおっさんがタクシーでいけ、とそばにたっていたタクシーの運ちゃんをよびつけて、こいつ、オートガルにいきてえんだとよ、という。小生は、あまりタクシーはつかいたくもないのだが、時間も気になるのでやむをえないので、いくらでいってくれると尋ねる。すると運ちゃんは５リラでどうだという。 多分、ここからそれほど遠くもないのだろうが、けっしてぼろうという金額とも思えない。が、といってここまでのドルムシュが10リラだったことを考えると決して安くもない。値切れば少しは安くなったかもしれないが、なによりも時間が気になる。小生が、OKだというと、運ちゃんは、リュックを運こぼう、といってくれるのでリュックをまかせて、タクシーの助手席に乗り込む。 が、タクシーがスタートしてまもなくカルスと比べてもかなり場末感のある小さなアルダハンの中心部を通りすぎて、ああ、やっぱり街の反対側にあるんだな、と思うまもなく広い空き地のようなところにはいったとおもったら、そこがアルダハンのバスターミナルだった。おもったよりも全然近く、5分も走っていない。うー、５リラはとられたなー、思う小生。しかたあるまい。運ちゃんは小生のリュックを車からおろしながら、おめえ、これからどこへいくんだ、と尋ねる。トビリシ、と答えると、じゃあ、そのオフィスだ、と停車場の隅っこに立っているバラックのような建物の中の一つを指差す。運ちゃんに礼をいいながら、約束の５リラを渡して、バス会社のオフィスに入る。 オフィスに入ると兄貴ふたりが、よー、どこへいくんでい、ふれんど、という。トビリシ、というと、おうけーい、じゃあ、パスポートと40リラだ、という。チケットは思ったよりもやっぱり高いが、まあ、国境を越えて走る交通機関はどれも割高なものだ。兄貴は、帳面に小生の名前とパスポートの番号を控えて、チケットをきり、パスポートとともに小生に手渡すと、バスくるまでしばらくあるから、外でまってろ、来たら教えてやるから、という。すでにカルスでチェリルに、バスがでると教えられた時刻の11時に近いのだが、まあバスは時間通りにくるわけがないわな、とリュックをオフィスの窓の外の下のベンチにポンとおいて、小生はひなたぼっこに興じる。今日も東アナトリア高原の日差し9月末にもかかわらずはあいもかわらずきつい。その時期のベルリンの天気のことを考えれば、もちろん御の字ではあるが。 ところが３０分を過ぎても、バスはあいからわずくる気配もない。もうまもなく正午だというのに、小生はまだまだトルコ国内なのだ。位置関係はわかっていても、トビリシまでどれぐらいの距離があるかもわからない。こんな調子でその日のうちにトビリシにつくのだろうか。いや、それ以前にグルジアに日本人はヴィザがいらなくなったとはいえ、国内の状況が状況なのだ、入国できるのかどうか、この時点での小生はまだまだ不安で仕方がなかったのだ。 というわけで今日はこれでおしまい。また自戒。]]></description>
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