前回までのあらすじ:グルジアへ出発しようとしたその日の朝、前日にデジカメを忘れたのにようやく気がつくわ、目のまえで踊りだす挙動不審型マイケル様仕様兄貴にでくわすわ、あまりの出来事満載の一日のスタートに期待と不安半分半分の小生。
9月25日8時半ごろ。小生をのせたアルダハン行きの乗り合いタクシーは5、6人ほどの客をのせて、カルスを出発。街をでると、朝ホテルを出たときにははっきりしなかった曇り空も雲一つない青空になっていることに気がつく。その見渡す限りの青空の下まっすぐのびている道を車はひた走る。見えるのは、時折、それほど手が入っているようには見えない耕地、放し飼いになっている家畜とそれをかこう石でくみ上げられた敷地の境界の壁、そして、道と並行するように走る電線だけ。集落とよべるかもわからないような家の塊がときおり視界に入ってくる。
どの家もブロック塀や石をつみあげられた簡素なものばかりなのだが、それでもどの家にも衛星放送をみるためのアンテナがついている。もちろん、文明社会がこの地に到来してそれほど長い年月がたっていないことは想像に難くない。ここで暮らす人々は、今もほぼ牧畜とほそぼそとした交易でくらしているのだろう。今日もこのステップに暮らしている人々は、中央アジアのステップあたりから高原地帯の草原にそってやってきた彼らの先祖と、それほど変わらない生活を送っているのだろうか。それとも、衛星放送と携帯電話が大きく彼らの生活を変えたのだろうか。
しばらく走ると、ステップの中の一直線の道はカルスとアルダハンの間に横たわる高地へ登っていくために多少左右にくねる。イスタンブルから陸伝いにやってくるとあまり気がつかないのだが、先ほどまでいたカルスもすでに標高1800mほどの場所にある。小生が走っているあたりの標高もすでに2000mをゆうにこえている。
ところで、この日のグルジアへの道筋、もっとも高いところで標高3000mほどはある小カフカース山脈を越えていくことになる。この小カフカースは、黒海沿岸に流れ出る河川と東アナトリア、アルメニアやアゼルバイジャン、あるいはグルジア、アゼルバイジャンを通ってカスピ海へと流れ出る河川の分水嶺でもある。これからグルジアに至るまでの道すじもその境界線にほぼそっているが(厳密にいうとやや東側)、この分水嶺は現在トルコ共和国とコーカサス3国との境界の少し西側はしっている。
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トルコ人が中央アジア方面から小アジア方面に移動してきて以来、20世紀初頭に、トルコ共和国とソヴィエト連邦の一共和国となったアルメニア共和国との境が現在あるように落ち着くまでは、つまり、アルメニア人が居住していた地域、つまりアルメニスタン、もしくはアルメニア人の自称に従うならばハヤスタンとよばれた地域は、ほぼこの分水嶺の東側にそってあった。だが、現在のトルコ共和国とアルメニア共和国との境はその分水嶺からはやや東にずれている。だから、現在のトルコ共和国の領土内に前日におとずれたアニのようなかつてのアルメニア王国の遺跡や教会が点在している。ここは古来様々な文化が交差し合い、そして政治権力が衝突し合う地域であった。19世紀にはロシア帝国とオスマン・トルコがコーカサスの覇権を競い合い、そして20世紀においてはソ連と境を接していた。ということは、トルコ共和国は1952年以来NATOの加盟国であることから、かつてはこの地域も東西冷戦の最前線でもあったわけである。そして、現在冷戦終結後のこの地域の権力図はまたしてもおおきくかわりつつある。
先ほどの左右にくねった道をさらにのぼりつめると、今度は見渡す限りのステップの中をまっすぐにのびる道を小生がのったドルムシュはひた走る。左右を見渡すと、草原が空と交わる一線にたどりつくまで果てしなくつづいている。集落が道からやや離れたところに見えるほかには、時折遊牧民とおぼしき人たちのテントの塊が時折道の左右にみえるのみ。その前日、アニへ行く途上にも同じようなテントとそこに暮らす人々を車中からのぞんたが、昨日の運転手のチェリル曰く、彼らはトルコ系やコーカサス系の遊牧民ではなく、ロマだということだった。ロマはどこにでもいる、世界中どこにでも、とチェリルはいった。ものの話では、南米にもその末裔がいるということだ。
確かに、この旅の途上、クルディスタンのウルファにもイスタンブールにも地元の人からロマと呼ばれる人々はいたし、小生のところにやってきて小銭をせびったりされたのも一度や二度ではない。これまで小生が旅した地域、特にバルカンや中東欧でロマと思しき人々に出会わなかったことはない。
ベルリンにもロマと思しき人たちは相も変わらずよく見かける。90年代にはさらに多かったともいうが、小生の印象では2006年のサッカーのW杯ごろからまた多くなった印象がある。男たちは、アコーデオンや弦楽器をもって、近郊列車の中や小生が住んでいるベルリンはプレンツラウアーベルクの界隈を演奏してまわって小銭をあつめまわっているし、子供や女たちは、ベビーカーや時にはリヤカーを引きながら、そこら中にあるがらくたを集めてまわっている。それは定住することや定職につくという発想がもとにあるもともとが農耕民である僕らにとってはそれは理解しがたいかもしれない。しかし、それが彼らの生き様なのだ。それをむやみやたらと啓蒙しようとした慣れの果てが、ユダヤ人にたいするホロコーストの影にかくれてなかなか顧みら得ることがないしいまだその補償も充分でないというナチスドイツによる種としての絶滅政策であったり、共産主義による同化政策という名の強制であったり迫害であったりする。
そのアコーディオンとヴァイオリンというロマにたいする小生のステレオタイプをかえるような出来事が2年前の秋、ルーマニアはトラシルヴァニアを旅している時にあった。ちょうどオラデアからクルージに向かう道筋だったか、その時も、乗り合いタクシーに乗っていたのだが、小カルパティア山脈を越える山道の途中、どの家もきらびやかな装飾や塔がついた色とりどりの木造の家がたちなぶロマの村を通り過ぎた(このような村はトラシルヴァニアだけでなくバルカン中、旧ソ連ならばウクライナやモルドヴァにも点在する)。そこで小生が乗っていた乗り合いタクシーを止めて乗って来たロマの若者のことは今でも忘れられない。その兄ちゃんの出で立ちと顔つきはまるでジミ・ヘンドリックスだった。60年代のヒッピーたちもロマのファッションを真似をしたともいう。そのロマの若者のその出で立ちの格好よさに、小生はおもわずため息をついてしまって、しばらく横顔も渋いジミヘンそっくりのその兄ちゃんをじろじろながめてしまった。
ところで、先ほどベルリンにもロマが増えたような印象があると書いたけれど、その彼らが路上で寝たり食事をしていたりのを見かけることはまずない。せいぜい子供は僕らの前で無邪気に「くすねた」(あげる側はめぐんでいるつもりなのだろうが)ものを食べていたりするのをみるけれど、大人たちはどこで寝食をしているのだろうか。ベルリンならばヴェディンクやノイケルンの日当りの悪い家の地上階に住んでいるのだろうか、と思ってしまいがちであるが、まさか。そんなことを僕らにさとられるほど、そして、みずからそんなところに進んで住むほど、彼らは間抜けではないだろう。多分、彼らは、ベルリンの町中あるいは郊外のどこかにある空き地などに、誰にもさとられず、自分たちの日々のパラダイスを築いてしまっているのだろう。そして、そこが都合悪くなれば、風のようにまた別の場所にうつる。
そもそも、間抜けなのは僕らなのだ。職業なる束縛があったりして一つの場所に定住し、様々な制約で自らをがんじがらめにしてしまって、日々青息吐息になっている僕らが。僕らの生活の隙間隙間をくぐり抜けて、その残余でいきているかのようにみえる彼らの生き様を抜け目ない野良犬のよう、といってしまいたくもなるが、しかし、多分、本能でいきている、もしくはそれを自ら充分過ぎる程知っている彼らにとって、僕らは余計なものばかりを生産する隙だらけの大間抜けなのだ。かつてほど、彼らの行動や生活の自由はゆるやかではないのだろうし、いうまでもなく、現在も彼らに対する差別は厳然としてある。それが不当であるのはいうまでもないが、なぜ彼らに対する差別が存在するか。様々な理由があるだろう。先ほど言及したが、劣等人種として絶滅を強いようとしたナチスや、労働しないのはけしからん、と定住と文明社会への啓蒙を強制した共産主義などは、結局彼らを未開の人間としかみていなかったということだ。(これが特別厳しかったのは中東欧ではチャウシェスク期のルーマニアや旧チェコスロヴァキアだという)。
しかし、様々な束縛を強いる僕らの文明の産物、僕らはそれに頼り切りではあるが、彼らにとっては所詮ガラクタでしかない、なによりそんな文明は彼らにとっては全く魅力的ではないのだ。つまり、彼らは知っているのだ、ガラクタをガラクタであるように作り出したのは僕らであって、そういったガラクタが必要でなければ生きていけないのも、僕らなのだ。だから、彼らにとって、僕らの住む現代の都市なども時折こぼれ落ちてくるようなものをくすねればすむようなガラクタに満ちた巨大な物置にすぎないのだろうし、それ以上の魅力はないのだろう。何千年もかけて築き上がられたこの文明世界に価値をみいださず、いや、また別の価値を己の生存のためにみつける彼らの生き方とは、僕らが通常これしかありえないとおもっている生の日々を揺さぶるようなものであるということに気づいている人は少ない。だが、必要以上に彼らの自由な生き様なるものを憧憬をもって美化する必要もないだろう。この話はこれにて打ち止め。
さて。そんなステップの真ん中の道をはしっていても、不思議とこのドルムシュを止める人はいるもので、いつのまにか車は満員になって狭い通路ともいえない隙間に立つ人もでるくらいになった。みなアルダハンにいくのだな、と思ていると、突如草原の中で車をとめて降り、そして、また乗る客ありで、こんな草原のど真ん中でこれだけの乗り降りがあるのかと驚くぐらいだ。そうこうしているうちに、道は下り坂になったかと思うと、左右に集落が増え、まもなくすると、左はアルダハンへと続く辻へとさしかかった。恐らく、まっすぐすすめば、さらに小コーカサスを越えてグルジアに至る道なのだろうが、小生の乗るドルムシュは左へアルダハンへとまず向かう。
しばらく走るとまもなくトルコ共和国の旗を斜面に描いたおおげさなモニュメントが左側にみえて、背丈の低い家が並ぶ市街へと入ってまもなくすると、同じようにドルムシュがたくさん停まっている駐車場の中で停まった。運転手は小生に対して、ここがアルダハンだ、終点だ、降りろといって、みたいなことをいって、トランクにある小生の荷物を出してくれる。
しかし、バス乗り場といった感じのところでもなく、トビリシ行きのバスの出発時間である11時まで1時間をすでに切っているので、時間も気になるし、すこし町外れだったりすると面倒くさいな、と思う。荷物をうけとりながら、トビリシ行きのバス乗り場(オートガル、とトルコ語ではいうが)はどこなんだ、だときくと、側にたっていたドルムシュ乗り場の警備員らしきおっさんになにか大声で叫ぶ。すると、その警備員のおっさんがタクシーでいけ、とそばにたっていたタクシーの運ちゃんをよびつけて、こいつ、オートガルにいきてえんだとよ、という。小生は、あまりタクシーはつかいたくもないのだが、時間も気になるのでやむをえないので、いくらでいってくれると尋ねる。すると運ちゃんは5リラでどうだという。
多分、ここからそれほど遠くもないのだろうが、けっしてぼろうという金額とも思えない。が、といってここまでのドルムシュが10リラだったことを考えると決して安くもない。値切れば少しは安くなったかもしれないが、なによりも時間が気になる。小生が、OKだというと、運ちゃんは、リュックを運こぼう、といってくれるのでリュックをまかせて、タクシーの助手席に乗り込む。
が、タクシーがスタートしてまもなくカルスと比べてもかなり場末感のある小さなアルダハンの中心部を通りすぎて、ああ、やっぱり街の反対側にあるんだな、と思うまもなく広い空き地のようなところにはいったとおもったら、そこがアルダハンのバスターミナルだった。おもったよりも全然近く、5分も走っていない。うー、5リラはとられたなー、思う小生。しかたあるまい。運ちゃんは小生のリュックを車からおろしながら、おめえ、これからどこへいくんだ、と尋ねる。トビリシ、と答えると、じゃあ、そのオフィスだ、と停車場の隅っこに立っているバラックのような建物の中の一つを指差す。運ちゃんに礼をいいながら、約束の5リラを渡して、バス会社のオフィスに入る。
オフィスに入ると兄貴ふたりが、よー、どこへいくんでい、ふれんど、という。トビリシ、というと、おうけーい、じゃあ、パスポートと40リラだ、という。チケットは思ったよりもやっぱり高いが、まあ、国境を越えて走る交通機関はどれも割高なものだ。兄貴は、帳面に小生の名前とパスポートの番号を控えて、チケットをきり、パスポートとともに小生に手渡すと、バスくるまでしばらくあるから、外でまってろ、来たら教えてやるから、という。すでにカルスでチェリルに、バスがでると教えられた時刻の11時に近いのだが、まあバスは時間通りにくるわけがないわな、とリュックをオフィスの窓の外の下のベンチにポンとおいて、小生はひなたぼっこに興じる。今日も東アナトリア高原の日差し9月末にもかかわらずはあいもかわらずきつい。その時期のベルリンの天気のことを考えれば、もちろん御の字ではあるが。
ところが30分を過ぎても、バスはあいからわずくる気配もない。もうまもなく正午だというのに、小生はまだまだトルコ国内なのだ。位置関係はわかっていても、トビリシまでどれぐらいの距離があるかもわからない。こんな調子でその日のうちにトビリシにつくのだろうか。いや、それ以前にグルジアに日本人はヴィザがいらなくなったとはいえ、国内の状況が状況なのだ、入国できるのかどうか、この時点での小生はまだまだ不安で仕方がなかったのだ。
というわけで今日はこれでおしまい。また自戒。



