2008年年9月3日。小生は突如思い立ってイスタンブールへ降り立つ。当初2週間程度の旅のつもりが、予定を大幅に超過して、気づけばトルコに文字通り沈没して3週間は経過。ベルリンへの帰りの飛行機の段取りも付ける気もなく、ついにシリア国境近くのクルディスタンはシャンリウルファまできてしまった。小生は、ここから一路大移動を敢行。そして、ついに北東アナトリアまできてしまった。さあ、それからどうしたした。どこへ行く小生よ!もちろん、グルジアにきまっとるやんけ。

ここでその旅のおおざっぱな行程を恒例の地図で。

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こうして北東トルコのカルスまでやってきてしまった小生。とりあえずここまで来てしまったのは、アルメニアとの国境のそばにあるアニというかつてのアルメニア王国の首都の廃墟を是非訪れてみたかったからというのもある。アニというのは、現在はトルコ側に位置するのだが、本当にアルメニアとの国境のそばにある。まずはそこにたどりつくためにはそのアニの最寄りの町カルスにたどりつく必要があった。
もちろん、カルスに向かう以上、そこから国境までだいたい100キロほどのグルジアにいくことは、クルディスタンのウルファから15時間以上夜行バスにゆられている途上で、すでに半分以上自分の中ではきめていたことだった。あとは、カルスで、グルジア国境とも近いこともあるので、他のトルコの街よりもさらにアクチュアルな情報が得られるだろうという確信があったので、そこで色々情報を集めてからいくいかぬを決めても遅くはないと思っていた。

いうまでもなく、9月の上旬の地点でのグルジアでは、ちょうど国際的な紛争、南オセチア紛争がおこったばかりで、停戦はすでに8月の中旬に合意されていたとはいえ、そうおいそれと行くべきところではなかった。その後の状況はトルコですでに三週間能天気に沈没していた小生にとっては隣国でもかなり遠い世界の出来事のように思えたのはいうまでもない。
その年の夏にエスカレートし始めた南オセチアを巡るグルジア政府軍とロシアに公然支援された南オセチアの民兵との小競り合いはロシアによる大規模な介入を 呼び起こして、戦火はグルジア全土へと及んだいったわけだけれど、わずか公式には10日間にわたる紛争が収束状態にはいり、EUの仲介する和平プロセスの 席にグルジアとロシアの両者がついて、ちょうどロシア軍がグルジア政府が実効支配する領域からの撤退が発表されたのが8月末で、小生がカルスにたどりつい たころには、すでにロシア軍はすでにグルジア政府の実効支配する領域から完全撤退を行ってだいたい一ヶ月たったかたたなかったぐらいのことで、実際現地がどうなっているかなどとは皆目見当もつかなかった。しかも、9月上旬にようやくグルジア政府によって「戦時状態」が公式に解除されたばかりだった。

それでも、このトルコを旅している最中に、グルジアからトルコへと流れ着いてきた旅行者たちとも遭遇したし、彼らは一様にグルジア政府が実効支配す る領域は全く問題がないということを述べていた。この時点で、カルスにまでいくなら、その先のグルジアまで行かない手はない、という思いが生まれてきた。

そこで、小生はまず日本の外務省やアメリカ国務省のホームページにある、いわゆる海外安全情報を確認した。まず、日本の外務省の安全情報をみて小生 はもちろんたじろいた。グルジア全土に「退避勧告」がでていた。つまり、全土が赤の警告色でぬりつぶされていた。ようするに住んでいる人も退避せよ、とい う勧告で、もしそこでその勧告に逆らってなにかがあれば、イラク戦争での日本人への対応によく言われた「自己責任」ということなのだ。ようするに「お上」 に逆らって、小生はグルジアに行こうとしていたのだけれど、いまだからそんなことをかいて、あたかもすごいことをやってのけたかのように、小生は書いてい るかもしれないけれど、いまから考えれば、自分でもなんという危険をおかしてしまったのかとはおもわなくもない。それでも、トビリシには大使館をもたない 日本外務省の情報よりも、大使館をおいているアメリカやイギリス当局のよりアクチュアルなはずな情報によれば、グルジア政府の実効支配圏はすでに落ち着き をみせているということだった。外務省の海外安全情報はまだ首都のトビリシでさえも退避勧告の対象であった。ちなみに、旅行延期勧告にかわったのは小生が トビリシにたどりついてからで、それでも、それ以外のグルジア全土がいまだ退避勧告の対象のままだった。ともあれ、そういうことならば、グルジア入りして も一応大丈夫な状態には回復していると、小生は判断したのだけれど、問題はグルジアとの国境までどうやってたどりつくか、ということであった。

また恒例の地図を。

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公式に旅行者にも開放されているトルコ・グルジアの国境通過点は小生の知る限り二つある。一つは黒海沿岸のサルプSarpからバトゥミBatumiへと向かうルート。それからチュルクギェチュTürkgözüからヴァレValeへ越えるルート。小生として後者のカフカース越え(露西亜語では小カフカース山脈 Малый Кавказとよんでヨーロッパとアジアを分かつ方を大カフカース山脈 (Большой Кавказ) と呼ぶとのことを果たして みたいところだったし、カルスからアクセスしやすいのは間違いなく後者のルートだった。前者は旅行者だけでなく貨物などの通行も多いルートということで、 小生としては、その小カフカース越えの人通りの少ないルートのほうが魅力的にうつったのはいうまでもない。

カルスに着いてチェックインしたケントホテルKent Otel(ロンプラにものっている安宿)で、こことグルジアとの行き来はあるか、ということをまず尋ねた。小生が宿泊したホテルのオーナーはNo Problemとさらりといってのけた。もうこちらからグルジア側にいっているビジネスマンはいくらでもいると。ただ、カルスから直通のバスはないから、 国境近くの街までいってあとはタクシーだな、ということだった。これを聞いて小生は少し困った。というのは、タクシーをチャーターすれば、金がかかるにき まっているからだ。ましてや一人旅。それでも、もはや後戻りはきかへんからな、と言い聞かせるように、とりあえず、銀行に向かって、多めに現金を用意する。
この日はとりあえず、15時間夜行バスに揺られて寝不足の体を昼過ぎまで狭いホテルの部屋で休めた後、小雨の降る市内をぶらぶらする。

カルス中心部。23.9.2008

カルス

カルスはトルコの街というよりかは、ところどころにある20世紀初頭にたてられたと思しき建物はヨーロッパ風で、背の低い建物と碁盤の目からなる町並みは、東ヨーロッパ、特に小生がよく放浪するカルパチア山脈沿いのかつてユダヤ人が多く住んでいたような小さな町を思わせる。より雑然としているのは、このカルスよりもそうしたシュテッテルとよばれるユダヤ人の寒村だったところのような気もするが。
しかし、カルスの位置する北東アナトリアからコーカサス山脈にかけては、場所がら19世紀以降はオスマン・トルコと南下を企てるロシア帝国の間での係争地で、カルスは19世紀初頭からトルコ共和国成立するまでは、ロシア帝国に属していた。そんなわけで、現在のあるカルスの街並みはロシア人によってつくられたものだという。もちろん、ここにはトルコ系の人々以外にも、グルジア人を始めとしたコーカサスの諸民族の人々、そして第一次大戦前までは多数いたアルメニア人、要するに東アナトリアとコーカサス、もとい中央アジアを通ってきたシルクロードをも結ぶ交通の要所ということもあって、様々な人々が行き交った街でもあった。
それにここはかつては8世紀から9世紀にかけてアルメニア王国の首都だった時期もあれば、10世紀から12世紀にかけてはクルド人によるシャッダード朝の支配もうけたし、なによりも、モンゴル人はここまでやってきて破壊略奪をしたという。その後、ロシア帝国の南下まではティムールやサファーヴィー朝の支配も受けた。
それでも、ロシアの影響か、これまで尋ねてきたトルコの街とはあきらかに空気が違う。西アナトリアやクルディスタンなどにまだあった陽気な感じはみじんも感じられな い。それどころか、一転して曇り空に小雨がしとしと降る天気もあいまって、こちらまで憂鬱になってしまう町並み。アジア人など珍しいのに決まっているのに、町行く人は小生の顔をみてもそれほど驚きもしないし、関心をしめそうともしない。一方で、西トルコと同様に、この町ではヘジャブをしている女の人にはクルディスタンほど出会わないし、若い人に関していうならはほとんどいない。なぜか、もの馴れた感じのあるこの街に、クルディスタンからやってきた小生は、突如として、どこか別の国の町につれされたような気分であった。

アルメニア教会の外壁の装飾

From Kars and Ani Անի

街を見下ろす高台にはものものしい要塞跡がみえる。丘へあがる途上、無人のアルメニア教会へと立ち寄る。そこから見える要塞は、19世紀以降、戦略的な重要性からかなり堅固につくられたようで、外壁も高い。

カルス要塞

From Kars and Ani Անի

しかし、小生がやってきた夕方には、すでに表の門はしまっていて、その次の日も結局中に入れずじまい。それでも、すでに高台の上にある要塞跡の門の前からでも街を、そして、カルスが位置する高原一帯が見晴らすことができる。すると、この街が、東アナトリアの広大なステップの中の島のような場所だということが容易に見て取れる。

カルスとその向こうに広がる東アナトリア高原

From Kars and Ani Անի

そして、街自体は極めて人工的で生活臭が妙にとぼしい。ここに突如目隠しをして連れられてきても、北東アナトリアの街、といわれてもいまひとつしっくりしないに違いない。

カルス要塞下。23.9.2008

From Kars and Ani Անի

この街のうらぶれぶり、というよりも街の空気が醸し出す平坦さ、街の表情の希薄さ、は小生にとっては実に東ヨーロッパ的だし、そこにある地の果て的な空気の濃厚さは相当なものだ。ロシア人が「作った」街というのは、形や建物の様式の違いやつくられた時代にかかわらず、なぜ同じような匂いが漂ってくるのだろう。小生は写真や映像をとおしてしか「ロシア」という地はみたことがないというのに。「ペテルブルグ」を書いたアンドレイ・ベールイがペテルブルグという街に対して語ったように、ロシアとはアジアというなにもない大地の上に人工的に築かれたみかけヨーロッパの顔をした場所、その人工的な平坦さが余計その背後にある大地の途方もなさを露呈でもさせるのだろうか。表面こそが最も深い、とでもいうのだろうか。多分、それがきっと魅力の一つなのだ。

カルス旧市街?23.9.2008

From Kars and Ani Անի

結局、その日はそれ以外にすることもないので、ホテルのある中心部へと足を進める。途中、中心部の角で足をとめて、写真をとっていると、ある男が流暢な英語で話しかけてくる。明日、アニへいくのか、と。そうだ、と答える。どうやって、と男は尋ねる。多分、タクシーをチャーターするつもりだけれど、あまり高いようならヒッチハイクをするかな、と小生が答えると、男は、明日アニにいくというイスラエル人客二人がいるんだが、3人だと、一人往復15ユーロぐらいだが、どうだ、と尋ねてくる。値段に文句はないので、こちらは是非頼む、と答えて、携帯の番号を交換して、明日朝8時半にお前のホテルのレセプションに迎えにいく、と彼はいって、俺はCelilチェリルだと名乗る。聞き覚えのある覚えだな、と思うと、ホテルのオーナーから俺の話はきいてないのか、それとも、お前のもってるガイドブック載ってるガイドの電話番号と同じだろう、という。ああなるほどね、とこちらはこれで納得。

渡りに梯子のオファーに納得した小生は、チェリルと分かれた後、ホテルの近くのトルコ料理屋で、ゆっくりたらふく夕食を取った後、近くのバクラバ屋で好物のミルクライスを注文する。チャイを飲みながら、まあ、グルジア行きはここまで来たのだからどうにかなるだろう、妙に楽天的になる。ホテルへの帰り道、すでに人気のあまりない夜道を歩きながら、たまにはビールを一人で飲んでほろ酔い気分になりながらの帰り道もいいな、と思いながら、それでもやっぱりあいかわらず一人ではアルコールは飲む気にもならず、途中たちよったベルリンのSpäti(ほぼ24時間で開いている雑貨屋Spätverkaufの略)をおもいおこさせれる雑貨屋でも、結局エフェスEfesではなくコーラにしてしまう。そのままホテルの部屋へ帰って、次の日の早朝アニへと向かうのに備えてベットに潜り込んで、まもなく眠りに落ちた。

続く。ではまた自戒。

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